1.ようこそ武山米店へ


ようこそ武山米店へ。

当店は明治10年に創業、この場所へ移転したのは明治33年です。

以来、ここ魚町で商いを続けています。大正4年と昭和4年には地区の大半が燃える大火事。平成23年の震災では3m近くの津波が押し寄せ、一部が流されました。そして平成30年、日本のみならず、世界の多くの方のご支援で復原することができました。

では、いまご覧の建物を分かりやすく説明するために、3つに分けて紹介します。

道路側にある二階建ての建物が「本館」。昭和5年に建てられた木造を一つひとつ丁寧にばらし、同じように組み立て直しました。

そして海岸側にある「蔵」。こちらは津波で削られた部分を修復しています。

3つめは平成30年に新しく追加した平屋建ての「新館」です。

2.建物の特徴

それでは、以前の建物と比べながら、特徴をお話しします。 

 第一に修復した「本館」は伝統和風建築の建て方「木造軸組工法」で建てられています。昭和4年の大火の後、約1年半かけてつくられ、先の震災で軒裏がすべて流されました。2階よりも道路にせり出した1階部分です。震災後間もなく倒れないよう応急工事だけをおこない、平成28年秋に解体。流された軒裏は新しい材料で継ぎ足しています。 

 第二に以前は細長く、変型した敷地に目一杯建てられて、「本館」と「蔵」が一直線に並んでいました。歩道にせり出している線が以前の敷地です。区画整理による道路拡張で同じ位置に建てるのは難しく、蔵と離さざるを得ませんでした。そこで本館と蔵をつなげる平屋建ての「新館」を設けています。 

 第三に建物が扇のような形をしています。後ろに回ってご覧になるとどれだけ変型しているかよく分かることでしょう。店の間口は広いですが、後ろはわずかしかありません。

 

 第四に建物が扇型なので、柱や梁の角度も様々です。同じ形の柱はわずかで、鋭角だったり鈍角だったり、木造建築のあらゆる技法を使った、匠の技が散りばめられています。 

 第五に少しでも火事を防ぐための工夫が凝らされています。壁は竹と縄で編んだ格子を土で固め、その上に金属をかぶせています。正面は銅板で、お隣さんとわずかなすき間しかなかった側面は波形トタンでした。山側にある銀色の部分がそれで、修復工事で一部だけ残しました。 

ちなみに上と下で色が違うことにお気づきになりましたでしょうか。下の黒い壁が、津波の押し寄せた高さです。 

 第六に新しく設けた「新館」は「21世紀の土間」をコンセプトに、蔵の奥にあった台所をあえて道路側へつくりました。それはこれまでお米を通じて食に携わり、これからも地域の食文化に貢献していきたいという想い、新しいことに挑戦し続ける進取の精神を引き継いでいきたいという想いを込めています。ここで普段は調理を行い、炊き出しやワークショップなど食のイベントにも活用できるよう作られています。さらに「本館」の伝統和風建築の構造や蔵がよく見える廊下を作りました。

3.内湾地区の成り立ち

気仙沼湾の一番奥にある内湾地区は別名「風待ち地区」と呼ばれています。どうしてそう呼ばれるのか。独特の景観を生み出したのはなぜか。その成り立ちを3つのキーワードでご紹介します。

1つ目のキーワードは「埋め立て」。

ここから北西1.5キロほど内陸にある気仙沼駅のある場所は、古い町と書いてふるまち。名前が示す通り最初に開かれた集落で、中世は古町まで入り江でした。そこから徐々に埋め立て、現在の地形が作られました。ですから内湾地区の大半は埋め立て地です。皆さんが立つこの場所も江戸時代に埋め立て、現在の海岸線ができたのはつい最近です。

埋め立てたことで内湾地区は交通の要衝になりました。三陸地方を南北につなぐ東浜街道、一関地方と東西を結ぶ気仙沼街道。さらに江戸や太平洋の港とつながる航路もでき、陸と海、3つのルートが交差して宿場町と交易の港、両方を持つまちになりました。そこへさらに漁港も整備され、繁栄を築いていったのです。

では、どうしてこのような細長い場所を埋め立てていったのでしょう?

2つめのキーワードは「風」です。

それでは皆さん、江戸時代を想像してみてください。当時はどんな船だったでしょう?

そうです。帆船です。帆船は風の力で動きます。気仙沼では「室根おろし」と呼ばれる北西からの風が吹きおろします。その風を集め、船を出すのにちょうどいい風が得られるよう埋め立てたと考えられています。しかも二つの岬、神明崎と柏崎に挟まれて湾内は波静か。地形を大いに利用し、船を出すにも留めるにも最良の港をつくったのです。このように風を待つことから、内湾地区は別名「風待ち地区」と呼ばれるようになりました。実際に隣の南町、昔の町名は西風の釜と書いて「ならいがま」。地名につけるほど、風とともにあったのがうかがえます。

風は繁栄をもたらすだけではありませんでした。

大正4年と昭和4年、内湾地区の大半が焦土と化す大火。それでも先人達はまちづくりを諦めませんでした。どうしてでしょう?

そこで浮かびあがる3つめのキーワードは、

進んで取ると書く「進取」です。

昭和の大火の後は全国からの支援を受け、その年の暮れにはほとんどが再建したといいます。和風、洋風、和洋折衷、様々な様式の建物が一斉にできあがり、独特の景観を生み出しました。そこには豊かな経済力がありました。そして伝統にとらわれない自由な雰囲気もあったと伝えられています。先人達がまちづくりを諦めなかったのは、災害を克服し、立ち上がる力があったからです。その根底には新しいものや困難なことに果敢に挑戦する「進取の精神」を持っているから、ともいえます。先の震災で独特の景観は一変したとはいえ、この進取の精神こそが内湾地区のDNAと言っても過言ではなく、今なお脈々と引き継がれているのです。

4.本館1階 店舗

この建物がどれだけ変型しているかよく分かる場所をご紹介します。まず天井を、そして道路側の軒裏をご覧ください。斜めに組まれているでしょう?同じように、変型した土地に目一杯つくった建物が内湾地区には数多くありました。 

ちょっと建物の話からそれますね。お店にある掛時計は明治33年からずっと動き続けています。大正、昭和の大火で真っ先に持ち出したのは時計だったそうで、昭和4年の大火では、当時9歳だった三代目が背負って逃げたそうです。その時持ち出せたのは仏壇とこの掛時計だけ。震災では波にのまれましたが、運良く床に横たわっていたのを拾い出すことができました。この掛時計は、3度の災害をくぐり抜け、いまも時を刻み続けています。 

 

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5.本館1階 事務室・和室

ここは神棚や仏壇が置かれ家族の生活の中心部でした。この建物でただ一つだけの四角い部屋が奥の和室です。それに障子の上はガラス戸になっています。これらは「ギヤマンガラス」と呼ばれるガラス細工が使われています。昔はお隣とわずかなすき間しかなく、当たらない部屋でしたから、外の光を取り入れるための工夫でした。 

 

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6.本館1階 振り分け階段

ここは昔、親子三世代が暮らしていました。狭い敷地でもそれぞれの部屋へ行き来できるよう工夫したのがこの振り分け階段です。冠婚葬祭は自宅で行われていたこともあり、大広間としても個別の空間としても使えるよう設計されています。 

 

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7.新館1階 土間・イベントスペース

ここは平成30年に新設した建物です。もともとは「本館が建ち、蔵と一直線に並んでいましたが、蔵と本館をつなげる空間として新たに作りました21世紀の土間」をコンセプトに、蔵の奥にあった台所を移動させ、食のイベントや炊き出し等にも使えるようしつらえています。 

 

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8.蔵

蔵の建築年は現時点では正確が年代が判明していません。昭和大火直後の写真には写っていること、扉のすき間に味噌を塗って中に火が入るのを防いだと言い伝えられていることから、大正大火後か創建時に建てられたと考えられます。

特徴は敷地に合わせて台形に作られている点です。ここには創業以来の大福帳や生活用品が保管されていましたが、今回の震災でほとんどを失いました。そこで流失を免れた明治大正時代のお膳、羽釜から最新炊飯器までの炊飯ツールを常設展示する「炊飯博物館」として改装しました。 

 

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9.蔵側面と木造軸組工法

こちらは蔵と木造軸組工法が見えるよう新設した廊下です。 

蔵の側面をご覧ください。「塩釜石」と呼ばれる東松島市鳴瀬町で採れる凝灰岩石(ぎょうかいがんせき)を互い違いに積み上げられている様子がご覧になれます。そして手前の材木は「木造軸組工法」で組まれています。縦の木が柱、横の木が梁、柱の真ん中をくりぬいて柱どうしをつなげる貫(ぬき)。この貫に格子(こうし)を貼り、壁を塗っていきます。 

 

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10.本館2階 和室

こちらの和室は以前、普段の生活のほか、冠婚葬祭の特別な行事にも使われていました。普段の生活では二つに区切り特別な行事は襖を外して大広間に。狭い敷地でもお客様へのおもてなができるよう床の間があり、普段の生活にも困らないようあちこちに収納もあり、生活の様々な場面になじむ工夫が凝らされています。 

 

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