3.内湾地区の成り立ち

 

気仙沼湾の一番奥にある内湾地区(ないわんちく)は別名「風待ち(かざまち)地区」と呼ばれています。どうしてそう呼ばれるのか。独特の景観を生み出したのはなぜか。その成り立ちを3つのキーワードでご紹介します。

 

1つ目のキーワードは「埋め立て」。

ここから北西1.5キロほど内陸にある気仙沼駅のある場所は、古い町と書いてふるまち。名前が示す通り最初に開かれた集落で、中世は古町まで入り江でした。そこから徐々に埋め立て、現在の地形が作られました。ですから内湾地区の大半は埋め立て地です。皆さんが立つこの場所も江戸時代に埋め立て、現在の海岸線ができたのはつい最近です。

埋め立てたことで内湾地区は交通の要衝になりました。三陸地方を南北につなぐ東浜街道(ひがしはまかいどう)、一関地方と東西を結ぶ気仙沼街道。さらに江戸や太平洋の港とつながる航路もでき、陸と海、3つのルートが交差して宿場町(しゅくばまち)と交易の港、両方を持つまちになりました。そこへさらに漁港も整備され、繁栄を築いていったのです。

では、どうしてこのような細長い場所を埋め立てていったのでしょう?

 

2つめのキーワードは「風」です。

それでは皆さん、江戸時代を想像してみてください。当時はどんな船だったでしょう?

そうです。帆船です。帆船は風の力で動きます。気仙沼では「室根おろし」と呼ばれる北西からの風が吹きおろします。その風を集め、船を出すのにちょうどいい風が得られるよう埋め立てたと考えられています。しかも二つの岬、神明崎(しんめいさき)と柏崎(かしざき)に挟まれて湾内は波静か。地形を大いに利用し、船を出すにも留めるにも最良の港をつくったのです。このように風を待つことから、内湾地区は別名「風待ち(かざまち)地区」と呼ばれるようになりました。実際に隣の南町、昔の町名は西風(にしかぜ)の釜(かま)と書いて「ならいがま」。地名につけるほど、風とともにあったのがうかがえます。

 

風は繁栄をもたらすだけではありませんでした。

大正4年と昭和4年、内湾地区の大半が焦土と化す大火。それでも先人達はまちづくりを諦めませんでした。どうしてでしょう?

 

そこで浮かびあがる3つめのキーワードは、

進んで取ると書く「進取」です。

 

昭和の大火の後は全国からの支援を受け、その年の暮れにはほとんどが再建したといいます。和風、洋風、和洋折衷、様々な様式の建物が一斉にできあがり、独特の景観を生み出しました。そこには豊かな経済力がありました。そして伝統にとらわれない自由な雰囲気もあったと伝えられています。先人達がまちづくりを諦めなかったのは、災害を克服し、立ち上がる力があったからです。その根底には新しいものや困難なことに果敢に挑戦する「進取の精神」を持っているから、ともいえます。先の震災で独特の景観は一変したとはいえ、この進取の精神こそが内湾地区のDNAと言っても過言ではなく、今なお脈々と引き継がれているのです。